大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和57年(オ)327号 判決

上告人

株式会社 大隈鐵工所

右代表者代表取締役

大隈武雄

右訴訟代理人弁護士

佐治良三

加藤保三

後藤武夫

太田耕治

建守徹

渡辺一平

被上告人

吉川清

右訴訟代理人弁護士

水野幹男

高木輝雄

内河恵一

小島高志

浅井淳郎

鈴木泉

山田幸彦

竹内平

杉浦豊

冨田武生

斉藤洋

宮田陸奥男

右当事者間の名古屋高等裁判所昭和五二年(ネ)第五六七号、同五五年(ネ)第二五九号地位確認等請求控訴、同附帯控訴事件について、同裁判所が昭和五六年一一月三〇日言い渡した判決に対し、上告人から一部破棄を求める旨の上告の申立があり、被上告人は上告棄却の判決を求めた。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

原判決中上告人敗訴の部分を破棄する。

右部分につき本件を名古屋高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人佐治良三、同加藤保三、同後藤武夫の上告理由第二点について

一  論旨は、要するに、被上告人の本件雇用契約解約の申込に対し上告人の即時承諾の意思表示があったものと解することはできないとした原判決には、審理不尽、経験則違背ないし理由不備、理由齟齬の違法がある、というのである。

そこで、判断するに、原審の確定した事実関係の大要は、次のとおりである。

(1)  被上告人は、大学在学中に日本民主青年同盟(以下「民青」という。)に加盟し、昭和四七年四月上告人(以下「会社」ともいう。)に入社した者であるが、同期入社で工業高等専門学校卒業の訴外上村進一(以下「上村」という。)とともに、入社後に班会議を組織し、被上告人がリーダー役となって会社内の民青の同盟員拡大等の非公然活動に従事していた。ところが、上村は、民青を脱退したいと思いながら生来の内気な性格のためにこれを果たせず、ひとり思い悩んで進退に窮し、同年九月二四日(日曜日)午後六時ころ自宅を出た後、会社の寮に帰らず、失踪するに至った。

(2)  翌二五日、会社本社人事第一課の高橋主任らの調査によって、上村の失踪当日の午後四時ころ被上告人が上村宅を訪問した事実が判明し、また、会社の寮の上村の部屋から被上告人の氏名が記載されている大学ノート一冊が発見され、更に上村宅の同人の部屋から一見して民青活動資料と分かる民青加盟確認書、民青新聞領収書、同盟費納入帳、ビラ、学習結果を記載した大学ノート一冊等が発見された(以下これらを一括して「民青資料」という。)。そのため、同月二五日以降連日、被上告人は会社の人事担当者から上村の失踪に関し事情聴取を受けたが、被上告人は、上村の失踪の原因及び行方について全く心当たりはない旨答え、民青活動に関することは何も話さなかった。また、被上告人は、当初、同月二四日に上村宅を訪問した事実を否定し、それについて上村の父に口裏を合わせてもらうために電話をしたこともあった。

(3)  同月二八日、会社は、上村の工業高等専門学校時代の教官や同級生を訪ねる社外調査を行い、被上告人も右調査に協力したが、上村の行方について何らの手掛りも得られなかった。ここにおいて、会社の人事管理の最高責任者である合田人事部長は、上村の民青資料を取り寄せ、これを切り札として被上告人に示し、果たして被上告人が上村の失踪の原因につき何も知らないのかどうか決着をつけることとし、同日午後五時一〇分ころ、長坂人事第一課長及び清水人事第二課長とともに会社の応接室で被上告人と面接した。その席上、合田部長が、民青資料を机の上に置きながら、「この記事の中から上村君の手掛りが出てこないか、君ひとつ見てくれないか」と申し向けたところ、被上告人は、右資料に手を触れないまま呆然自失の状態で暫時沈黙していたが、突然「私は退職します。私は上村君の失踪と全然関係ありません。」と申し出た。合田部長は、民青の同盟員であることを理由に退職する必要はない旨を告げて被上告人を慰留したが、被上告人がこれを聞き入れなかったので、長坂課長に命じて退職願の用紙を取り寄せ、被上告人に交付したところ、被上告人は、その場で必要事項を記入して署名拇印した上これを合田部長に提出し、同部長はこれを受け取った。

その後被上告人は、長坂課長から退職手続をするよう促され、その場に持っていた身分証明書や食券等を棚橋副主任に渡し、また、ロッカールームと職場から作業衣、職章、職札等を持って来てこれも返還した。しかし、従業員預金の解約、大隈労働組合からの脱退、大隈消費生活協同組合からの脱退等の手続や私物の引取等はその日のうちに完了できないため、被上告人は、翌日これらを行う旨述べて、午後六時三〇分ころ退社した。

二  原審は、右の事実関係に基づき、次のとおり認定判断した。

(1)  被上告人が退職願を提出したのは、将来会社の幹部社員になることを期待して入社したのに、それまで秘匿していた民青所属の事実が会社に露見したことを知って強い衝撃を受け、社内における自己の将来の地位に希望を失ったことが主たる動機となっていたものと認められる。被上告人は、退職願を提出したことにより、会社がこれを承認したときは即時雇用契約から離脱する意思で本件雇用契約合意解約の申込をしたものと認めるべきである。右合意解約の申込につき動機の錯誤や強迫があるとは認められず、被上告人のした合意解約の申込は有効である。

(2)  しかし、合田部長が被上告人の退職願を受理したことをもって本件雇用契約の解約申込に対する上告人の承諾があったものとは到底解することができず、右受理は解約申込の意思表示を受領したことを意味するにとどまるものと解するのが相当である。

三  しかしながら、以下に検討するとおり、前項(2)の原審の認定判断は、経験則ないし採証法則に照らして到底是認し難いものといわなければならない。

1  私企業における労働者からの雇用契約の合意解約申込に対する使用者の承諾の意思表示は、就業規則等に特段の定めがない限り、辞令書の交付等一定の方式によらなければならないというものではない。

ところで、原判決は、前記のとおり、合田部長を上告人の人事管理の最高責任者であるとし、同部長が被上告人の退職願を即時受理した事実を認定しながら、右受理をもって被上告人の解約申込に対する上告人の承諾の意思表示があったものと解することができないとしているが、その理由とするところは、「被上告人が入社するに当たっては、筆記試験の外に面接試験が行われ、その際大隈副社長、技術系担当取締役二名及び合田人事部長の四名の面接委員からそれぞれ質問があり、これらの結果を総合して採用が決定されたことが認められる。この事実と対比するとき、被上告人の退職願を承認するに当たっても、人事管理の組織上一定の手続を履践した上上告人の承諾の意思が形成されるものと解せられるのであって、人事部長の職にあるものであっても、その個人の意思のみによって上告人の意思が形成されたと解することはできない。」というに尽きるのである。

原審の右判断は、企業における労働者の新規採用の決定と退職願に対する承認とが企業の人事管理上同一の比重を持つものであることを前提とするものであると解せられるところ、そのような前提を採ることは、たやすく是認し難いものといわなければならない。けだし、上告人において原判決が認定するような採用制度をとっているのは、労働者の新規採用は、その者の経歴、学識、技能あるいは性格等について会社に十分な知識がない状態において、会社に有用と思われる人物を選択するものであるから、人事部長に採用の決定権を与えることは必ずしも適当ではないとの配慮に基づくものであると解せられるのに対し、労働者の退職願に対する承認はこれと異なり、採用後の当該労働者の能力、人物、実績等について掌握し得る立場にある人事部長に退職承認についての利害得失を判断させ、単独でこれを決定する権限を与えることとすることも、経験則上何ら不合理なことではないからである。したがって、被上告人の採用の際の手続から推し量り、退職願の承認について人事部長の意思のみによって上告人の意思が形成されたと解することはできないとした原審の認定判断は、経験則に反するものというほかはない。

2  また、記録によれば、本訴において被上告人が退職願の撤回ということを主張したのは、昭和五六年一月二八日の原審第一八回口頭弁論期日において陳述の同五五年一一月一九日付け準備書面が最初であるところ、上告人が、同五六年七月二〇日の第二一回口頭弁論期日において陳述の同年五月二七日付け準備書面をもって、被上告人の退職願については上告人の人事管理の最高責任者である合田部長により承諾の意思表示がされたから合意解約成立後の撤回は効力を生じない旨を主張したのに対し、合田部長の意思のみによって上告人の承諾の意思表示がされ得るかどうかについて被上告人の反論や原審の釈明がされた形跡はなく、原審は右第二一回口頭弁論期日において弁論を終結した。ところで、原判決挙示の証拠中、乙第五号証(被上告人の本件退職願)、第二一号証(昭和四七年七月二〇日付け井浪俊次の退職願)及び第二七号証(昭和四〇年一二月一六日付け富田寿二の退職願)によれば、その決裁欄は人事部長の決裁をもって最終のものとしていることが記載上明らかである(なお、本件上告理由書添付の別紙第三(「職務権限規程」と題する文書)によれば、上告人には、人事部長の固有職務権限として、課次長待遇以上の者を除く従業員の退職願に対する承認は、社長、副社長、専務、関係取締役との事前協議を経ることなく、人事部長が単独でこれを決定し得ることを認めた規程の存在することが窺われるのである。)。以上の点に照らしても、被上告人の退職願の承認に当たり人事部長の意思のみによって上告人の意思が形成されたと解することはできないとした原判決には、採証法則違背ないし審理不尽の結果、証拠に基づかない判断をした違法があるものといわなければならない。

3  そして、合田部長に被上告人の退職願に対する退職承認の決定権があるならば、原審の確定した前記事実関係のもとにおいては、合田部長が被上告人の退職願を受理したことをもって本件雇用契約の解約申込に対する上告人の即時承諾の意思表示がされたものというべく、これによって本件雇用契約の合意解約が成立したものと解するのがむしろ当然である。以上と異なる前提のもとに、合田部長による被上告人の退職願の受理は解約申込の意思表示を受領したことを意味するにとどまるとした原審の判断は、到底是認し難いものといわなければならない。

四  以上の次第であるから、被上告人の本件雇用契約の合意解約申込に対しまだ上告人の承諾の意思表示がされないうちに被上告人が右申込を撤回したとした原判決には、経験則・採証法則違背の違法があり、ひいて審理不尽、理由不備の違法があるといわざるを得ない。同旨をいう論旨は理由があり、原判決はその余の点について判断するまでもなく破棄を免れない。そして、右の点について更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すのが相当である。

よって、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 長島敦 裁判官 伊藤正己 裁判官 安岡滿彦 裁判官 坂上壽夫)

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